平安時代の政治について調べると、「右大臣」や「左大臣」という言葉を目にすることが多いと思います。
ですが、名前は知っていても、その違いや役割までは知らない、という方は多いのではないでしょうか。
この記事では、右大臣と左大臣の違いを、初心者の方にもわかりやすく解説していきます。
順番に読み進めることで、当時の政治の仕組みや権力構造が自然と理解できる内容になっています。
結論|右大臣と左大臣をひとことでいうとこうなる

まずは結論からお伝えします。
この二つの役職は似ているように見えますが、実は役割や立場に明確な違いがあります。
- 左大臣は内政を中心に担当し、右大臣よりも序列が上でした。
- 右大臣は軍事や外交を中心に担当し、国の外との関係に深く関わっていました。
どちらの役職も国を支える重要な立場でしたが、制度上は明確に「左が右より上位」と定められていました。
これは今と違い、当時の文化や思想が強く関係しており、単なる立場の違いではなく、象徴的な意味も含まれていました。
さらに、左大臣と右大臣には力関係の差だけでなく、政治の場での影響力にも違いがあります。
左大臣は内政を動かす立場として、国内の貴族や役人たちとの関係が強く、反対に右大臣は外征や国境問題、外交交渉など、外に向けた政策を多く扱っていました。
こうした違いを知ることで、平安時代の政治が単純な上下関係ではなく、役割分担を前提とした仕組みだったことが見えてきます。
この結論を頭に入れたうえで、次の章ではさらに制度の背景や歴史的な意味を深く掘り下げていきます。
そもそも「右大臣」「左大臣」とは?平安時代の官職について

平安時代には、律令というルールに基づいた政治の仕組みがありました。
その中枢にあったのが「太政官」という組織です。右大臣と左大臣は、この太政官の中でも特に重要な役職でした。
当時の政治制度は、現代と比べると非常に階層的で、役職や身分によって任される仕事や社会的な立場が大きく異なりました。
そのため、右大臣や左大臣といった高い役職は、多くの人にとってあこがれの存在でもありました。
彼らは国家を動かす中心人物であり、その言葉や判断は国の未来に大きく影響したのです。
律令制と太政官の位置づけ
律令制とは、法律と制度がセットになった政治の仕組みのことです。
この仕組みは、中国の政治制度を参考に作られ、日本の政治を長く支えました。
太政官はその中で、政治の方針を決めたり国の運営を行う中心的な役所でした。
太政官では、多くの官僚が働き、それぞれが決められた役割に従って仕事を行いました。
右大臣と左大臣はその中でも特に高い地位にあり、国家の方針を決める重要な会議に参加していました。
「三公」と呼ばれる大臣たち
太政官の中でも、特に重要な三つの役職がありました。
- 太政大臣
- 左大臣
- 右大臣
この三つをまとめて「三公」と呼びます。左大臣と右大臣は、太政大臣に次ぐ役職でした。
ただし、太政大臣が常に任命されていたわけではなく、空席の期間も多くありました。
そのため、実際には左大臣や右大臣が政治の場で中心的な役割を担うことが多かったのです。
公卿という身分
左大臣や右大臣を含む高位の貴族は、「公卿」と呼ばれ、特に高い身分として扱われていました。
これは現代で言うところの、政府の中枢にいる幹部に近いイメージです。
公卿になれる人は限られており、長い政治経験や高い位階が必要でした。
そのため、誰もが目指せる職ではなく、選ばれた一部の人だけが辿り着ける場所だったと言えます。
序列の違い|右大臣より左大臣が上とされた理由
では、なぜ左大臣が右大臣より上なのでしょうか。
それには、古くからの考え方が関係しています。
古代の中国では、「左」は尊い位置と考えられていました。
その影響を受けて、日本でも左が右よりも上位とされるようになりました。
政治の仕組みは中国文化の影響を強く受けていたため、その思想がそのまま官職制度にも反映されたのです。
左大臣と右大臣で担当が違った
左大臣と右大臣は、ただ序列が違うだけでなく、担当する内容や求められる能力にも違いがありました。
役割分担が明確に設定されていたことで、国家運営がより整理され、専門性を持った政治が行われていたと言えます。
- 左大臣は国内の政治や行政の整備を行う役割で、法律や制度の見直し、国内の貴族や役人との調整、宮中での儀式運営など、内政に関わる幅広い仕事を担当していました。
- 右大臣は外交や軍事に関係する事柄に力を注ぐ役割で、外国使節との交渉、国境や領土問題の管理、必要に応じた軍事行動の準備や調整など、国を外から守る方向の仕事が中心でした。
つまり、左大臣は国の内部を整え、政治の基盤を維持する役割。
一方の右大臣は、外交や防衛といった外に向けた働きを担っていたという違いがあります。
現代の感覚でいうと、左大臣が「国内政策担当の大臣」、右大臣が「外交・安全保障担当の大臣」というイメージが近いかもしれません。
また、この役割の違いによって、大臣として求められる性格や適性も異なっていたと言われています。
左大臣には、国内の政務を調整するための調和力や政治的判断力が必要でした。
反対に右大臣には、外交交渉の柔軟さや、時には軍事的な決断力が求められたと考えられます。
こうした背景を知ると、右大臣と左大臣は単なる階級の上下ではなく、それぞれが国家の方向性を支える重要な役職であったことがわかります。
昇進はどう決まった?大臣になるまでの道
平安時代には階級制度があり、官僚はこの階級に応じて昇進していきました。
しかし、昇進は単純に年数だけで進むものではなく、任務の実績、人物としての評価、そして家庭環境や家柄など、さまざまな要素が複雑に関わっていました。
また、血筋や家柄も非常に重要でした。特に、藤原家が権力を握った背景には、皇室との深い婚姻関係があります。
皇室と結びつくことで政治的信用が高まり、重要な役職につく機会が増えていったのです。
このように、政治の世界では「縁」が非常に大きな意味を持っていました。
もちろん、すべてが家柄だけで決まったわけではなく、中には才能や実績によって昇進した人物もいました。
しかし、多くの場合、出世には家系の力や周囲との関係構築が大きく影響したと考えられます。
こうした事実から、平安時代の政治は「実力だけではなく、家柄・血筋・人間関係が大きな鍵となった社会」であったと言えるでしょう。
有名な左大臣と右大臣の例
歴史の中で特に知られているのは、藤原道長と藤原頼通です。
この親子は、平安時代の政治と文化を語る上で欠かせない存在です。
藤原道長は左大臣として権力をほぼ独占し、その政治力は「この世をば わが世とぞ思ふ」いう有名な歌からも読み取れます。
これは、自分の権力が絶頂にあることを自信満々に歌ったものと言われています。
その息子である藤原頼通は右大臣として政治に関わりました。
父ほどの政治的支配力は持たなかったものの、文化面で大きな功績を残した人物です。
頼通が造営した平等院鳳凰堂は、現在も京都に残る重要な文化財で、当時の優雅な貴族文化を象徴する建築物として知られています。
この建物は国の宝とも言える存在で、藤原家が政治だけでなく文化の発展にも大きく関わったことを示しています。
制度が変わり、役割が形だけに
時代が進むと政治の仕組みも変化し、右大臣や左大臣の役割は徐々に実務的なものから儀礼的な存在へと移っていきました。
特に摂関政治が強くなると、政治の中心は摂政や関白へと移り、大臣たちの実際の権力は少しずつ薄れていきます。
さらに武士政権が成立すると、政治の主導権は貴族から武士へ移りました。
鎌倉時代以降は、政治の実権が幕府によって握られ、大臣たちは象徴的な存在として残るのみとなりました。
つまり、役職そのものは存在し続けたものの、その実際の影響力は以前とは比べものにならないほど弱くなったのです。
そして明治時代に行われた大規模な政治改革によって、古くから続いた律令制度自体が見直され、右大臣や左大臣という役職は正式に廃止されました。
これにより、長い歴史を持つ伝統的な役職は、制度の大きな転換点を境に姿を消すこととなりました。
現代の役職に例えるとどうなる?
役職の名前だけ聞いてもイメージが沸きにくいかもしれませんが、当時の政治構造から考えると、現代の役職に次のように置き換えると理解しやすくなります。
- 左大臣=内政をまとめ、組織全体を統括する責任者
- 右大臣=外交・軍事を中心とした対外政策の責任者
こうした比較はあくまでイメージにすぎませんが、役割を理解する上では便利な考え方です。
現代とは制度や背景が大きく異なりますが、「国の運営には役割分担があり、それぞれに専門性が求められていた」という点では共通しています。
完全に一致するわけではありませんが、当時の役割を考える際の参考になるでしょう。
まとめ|右大臣と左大臣の違いを知ると歴史がもっとわかる
右大臣と左大臣は、どちらも平安時代の政治を支えた重要な役職でした。
序列や担当の違いはあるものの、国をまとめるためにはどちらも欠かせない存在でした。
それぞれが異なる視点や役割を持っていたことで、政治が一方の考え方に偏らず、バランスを保ちながら進められていたことがわかります。
また、右大臣と左大臣は単なる役職名ではなく、当時の政治思想や文化背景が反映された存在でもありました。
どちらの役職にも象徴的な意味があり、その地位にあった人物の言動は宮廷内外に強く影響を与えました。
特に重要な議題や儀式では、両者の動きが政治情勢を左右することもあったと言われています。
歴史を学ぶとき、このような役職の違いを知っていると、物語や史料がより深く理解できるようになります。
教科書では見落としてしまいがちな人物同士の立ち位置や背景、権力関係の流れがより立体的に感じられるようになり、歴史そのものがより具体的で身近なものとして感じられるはずです。

